上杉綱憲の木像(鳳台寺 所蔵)
上杉綱憲
江戸時代前期の大名。「赤穂事件」で赤穂浪士に討ち取られた高家肝煎・吉良上野介義央の子。幼名は吉良三之助、上杉氏に養子入りしたのちは上杉景倫(かげのり/かげとも)、上杉時代の通称は喜平次。官位は従四位下、侍従、弾正大弼。米沢藩主で伯父の上杉綱勝が嗣子のないまま急死し、米沢藩が改易の危機に陥った際、綱勝の岳父・保科正之の取り成しで生まれたばかりの綱憲が養子として上杉家に入り改易を免れた。のち実家の吉良家に後継者がいなくなっていたため、綱憲は次男(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。米沢藩主としての綱憲は数学振興やのちに藩校「興譲館」となる聖堂・学問所を設立するなど文治政治に力を注いだ。しかし、寺社の大修理などの建築事業やぜいたくなどにより藩財政は悪化、実家・上杉家への援助も財政圧迫を加速させた。そして、1701年(元禄14)、父・義央が赤穂藩主・浅野匠頭長矩に斬り付けられ、翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われた。綱憲は父・義央のため援軍を送ろうとしたが幕府老中から出兵差し止め命令が遠縁の高家・畠山義寧より伝えられ、綱憲は援軍を送れなかった。なお、『忠臣蔵』などフィクションでは綱憲を止めたのは家老の色部安長または千坂高房だが、これは事実ではない。「赤穂事件」について、江戸の人々は赤穂浪士たちを“義士”として賞賛した一方、行動を起こさなかった綱憲と米沢藩上杉家を腰抜けとみなし、「景虎(謙信)も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出もやらねば」などといった上杉家を揶揄する落書を大量に貼った。その後、綱憲は病により隠居、42歳で没した。墓所は山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所・上杉家廟所。
Originally uploaded by: 治済
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