御田八幡神社(東京都港区三田。高田郡兵衛が正装で討入後の赤穂浪士を迎えた場所。赤穂浪士は取り合うことがなかった)
高田郡兵衛
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。「槍の郡兵衛」と異名をとる槍の達人だが、赤穂浪士たちの義挙から脱盟したことで不忠臣とのそしりを受ける。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし、切腹、お家断絶となると、郡兵衛は堀部安兵衛、奥田孫太夫とともに江戸から赤穂へ急行し筆頭家老の大石内蔵助に篭城を主張、赤穂城開城後は、再び堀部・奥田らと江戸へ戻り江戸急進派として仇討ちを主張し続けた。ところが、郡兵衛は突如脱盟してしまう。その理由については、幕府旗本の伯父・内田三郎右衛門から養子になるよう申し出を受けたが、これを郡兵衛は「思うところがあって」と断った。このことを聞いた伯父は郡兵衛の兄に「思うところとは仇討ちのことではないか」と糾明、兄が認めてしまったため伯父は郡兵衛が養子にこなければ仇討ち計画のことを幕府に訴え出る、と詰め寄った。このため郡兵衛はや脱盟せざるをえなくなったという。江戸急進派の先鋒だった郡兵衛の脱盟を知った同志たちの怒りは非常なものだったといわれ、討ち入り後、吉良邸から主君・浅野内匠頭長矩の眠る泉岳寺まで引き上げる際、祝い酒を持参して泉岳寺に現れた郡兵衛に対し、浪士たちは「踏み殺せ」と罵倒し追い払ったという逸話まで残る。なお、伯父は家督を別の人物に継がせており、郡兵衛のその後の消息は不明、浪士たちの切腹後に自害したともいわれる。
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