月光院、お伝の方の墓(増上寺の合祀塔、東京都港区芝公園)
月光院
徳川幕府6代将軍・徳川家宣の側室、7代将軍・家継の生母。本名は勝田輝子、側室としての名はお喜世(きよ)の方、左京の局。もと加賀藩士で浅草の住職の娘として生まれた。甲斐国甲府藩主時代の徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)に仕え、才色兼備だった月光院はやがて綱豊から寵愛を受けるようになり、綱豊が6代将軍・家宣となり世継ぎとなる男児(鍋松、のちの7代将軍・家継)を生むと、月光院は大奥で絶大な権力を持つようになった。夫である家宣が死去すると落飾し「月光院」と号したが、実子の家継が7代将軍となったことでさらに大奥での権力は大きなものとなった。「絵島生島事件」で処罰された大奥御年寄の絵島は月光院の右腕ともいえる女性で、この事件の裏には月光院の権勢を憎む家宣の正室・天英院派の暗躍があったとも。7代将軍・家継が急死したあとに起きた将軍継嗣問題では、月光院は紀州藩主・徳川吉宗を、天英院は尾張徳川家の徳川継友(つぐとも)を推薦し対立、最終的に天英院の賛成もとりつけ8代将軍には吉宗が就任し月光院は大奥で大きな影響力を保ち続けた。墓所は東京都港区芝にある徳川家菩提寺の増上寺。和歌にも優れていた月光院は『車玉集』という歌集も残している。ちなみに、月光院といえば6代将軍・家宣の側近である間部詮房(まなべあきふさ)とただならぬ仲で、家継も詮房に非常に懐いていたことから家継はじつは詮房の子ではないか、という噂が流れたことでも有名。さらに、8代将軍に推薦した吉宗との間にも醜聞が噂されたが、どちらも俗説の域を出ず信憑性は薄い。
お伝の方
徳川幕府5代将軍・徳川綱吉の側室。落飾後は瑞春院を名乗る。下級武士の娘だが、綱吉の生母・桂昌院の侍女となり綱吉に見初められ側室となった。綱吉の寵愛深く、長女・鶴姫、長男・徳松を生んだ。綱吉の子を生んだのはお伝の方だけだったため、大奥で絶大な権力を持つようになった。公家出身の綱吉の正室・鷹司信子とは非常に不仲で対立関係にあったといわれるが確証はない。しかし、徳松はわずか5歳で早世し、紀州藩主・徳川綱教に嫁いだ鶴姫も27歳の若さで病死してしまった。夫である綱吉の死後は落飾し、江戸城二の丸にて余生を過ごした。墓所は東京都港区芝にある徳川家菩提寺・増上寺。ドラマなどのフィクションでは悪女として描かれることが多い。
Originally uploaded by: 墓マイラーが行く。
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