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市川團十郎(初代)

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市川團十郎(初代)

市川團十郎(初代)
元禄期(1688~1704)に江戸で活躍した歌舞伎役者。超人的な力を持つ正義のヒーローが活躍する豪快で力強い演技が特徴の「荒事」を創始し、江戸歌舞伎を代表する役者として絶大な人気を集め、現在で12代を数える歌舞伎の名家・市川宗家の基礎を築いた。また、「元禄見得」と呼ばれる見得を考案した。本姓は堀越、幼名は海老蔵。父は甲州出身で「菰の十蔵」の異名を持つ侠客(ヤクザ)だったという。幼少期については記録に乏しい。やがて芝居の道に入り14歳の時に初舞台を踏んだと伝わる。はじめ市川海老蔵と名乗り、その後、市川團十郎と改名、1680年(延宝8)に演じた『遊女論』の不破伴左衛門が当たり役となり注目を集め始め、『兵根元曽我』の曽我五郎や坂田金時、不動明王など数々の当たり役を生んだ。また、「三升屋兵庫」のペンネームで狂言作家としても活動し、自作の狂言に出演もした。しかし、1704年3月24日(元禄17年2月19日)、公演中に役者・生島半六により舞台上で刺殺された。ちなみに、市川家といえば「成田屋」の屋号が知られるが、その由来は、初代の父が成田山新勝寺に程近い土地の出身だったこと、子宝に恵まれなかった初代が成田山に祈願したところ子を授かり、そのお礼公演として『成田不動明王山』を上演、これが大ヒットし「成田屋」のかけ声が客席からかかったことなどによるという。

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