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徳川忠長の肖像画

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徳川忠長の肖像画

徳川忠長
江戸時代前期の大名で、3代将軍・徳川家光の実弟。駿河国駿府藩主。父は2代将軍・秀忠で徳川家康は祖父にあたる。会津藩主・保科正之は異母兄弟。幼名は国松(国千代とも)、通称は駿河大納言。父・秀忠と母・お江の三男としいて生まれる。容姿端麗で頭脳明晰な少年だった忠長は父母から溺愛され、これにより兄・家光(当時は竹千代)との間に将軍継嗣問題が勃発する。しかし、兄・家光が3代将軍となったことで忠長は、松平姓を称し甲府23万石を与えられ藩主となった。元服後、駿河国と遠江国の一部を加増され55万石を領する。1631年、不行跡を理由に甲府へ蟄居を命じられ、父・秀忠の危篤の際にも江戸へ戻ることは許されなかった。さらにその後、全領地を没収のうえ上野国高崎への逼塞が命ぜられ、1634年、幕命により高崎の大信寺にて自刃し果てた。墓所は群馬県高崎市にある大信寺。忠長といえば、家臣や領民への無差別な殺戮や浅間神社での猿狩りなど狂気に満ちた逸話が有名だが、これらの伝承は信憑性に欠ける。ちなみに、歴史小説『松平長七郎旅日記』やテレビドラマ『長七郎江戸日記』などの主人公で知られる松平長七郎は忠長の子という伝説があるが、忠長に実子がいたという記録はない。

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