『平洲嚶鳴館遺草』(細井平洲の教えをまとめた書)
細井平洲
江戸時代中期から後期の折衷学派の儒学者。名君として名高い米沢藩主・上杉鷹山(治憲)の師として知られる。本姓は紀氏、諱は徳民、一般に知られる平洲は号で、号はほかに如来山人、通称は甚三郎、字は世馨。尾張国知多郡平島村(現・愛知県東海市)の豪農の家に生まれ、幼い頃から学問に励み、名古屋の折衷学派の実学者・中西淡淵に師事した。長崎に遊学後、江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開き身分を問わず学問を教えた。45歳の頃、まだ江戸にいた上杉鷹山の師となり、鷹山が米沢藩主に就任し藩政改革に着手すると平洲は鷹山に助言を与えたり、藩校「興譲館」の創設に尽力するなど(校名の命名者も平洲)活躍した。53歳の時には御三家の筆頭・尾張家に招かれ藩校「明倫堂」(現・愛知県立明和高校)の督学(学長)に就任した。農村をまわって庶民教育にも力を注いだ。著書に『嚶鳴館遺草』『詩経古伝』など。平洲の名言として、藩主就任前の鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな勇にあらずしてなにをもって行なわんや」が有名。平洲の故郷である愛知県東海市では地元の偉人として今も深く敬愛されており、平洲の名を冠した学校や平洲記念館などがある。墓所は上杉鷹山と同じ山形県米沢市にある松岬神社。
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