「忠臣蔵」の第一の見せ場、松の廊下で斬りつけられる吉良上野介(『忠雄義臣録』より 三代歌川豊国 画)
浅野内匠頭
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩の3代藩主。『忠臣蔵』こと「元禄赤穂事件」での悲劇の若き主君として知られる。官命から「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」と通称される。幼名は又一郎。赤穂藩2代藩主・浅野長友の長男として江戸鉄砲洲にある浅野家の上屋敷にて誕生。幼い頃に父母と死別し、9歳の幼さで赤穂藩主となった。朝鮮通信使饗応役に幕府から任命されたり、霊元天皇の勅使饗応役などを務めた。所領の赤穂藩へ初めて入ったのは17歳(満15歳)の時で、その時に筆頭家老・大石良雄らと対面した。1701年3月13日、2度目となる勅使饗応役を拝命、この時の礼法指南役が吉良善央であり、4月21日、江戸城本丸大廊下(通称:松の廊下)にて長矩が吉良に切りつけるという刃傷事件を起こした。長矩は将軍・綱吉の命により異例の即日切腹、浅野家は改易となった。墓所は東京都港区高輪にある泉岳寺。なお、長矩の辞世の句として「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」という句が有名だが、これは当時の目付け・多門伝八郎が記した『多門伝八郎筆記』にしか記述が見られず、長矩に同情的だった多門による脚色の可能性が高いといわれる。また、長矩が刃傷に及んだ理由については、取調べに対し長矩が「遺恨あり」としか答えておらず具体的な動機などは不明で、「吉良への賄賂が少なく吉良から嫌がらせを受けた」「長矩の妻・阿久里に吉良が横恋慕」「長矩が精神病を患っていた」など諸説あるが真偽は不明。ちなみに女優の大原麗子は浅野長矩の子孫にあたるとされる。
吉良上野介
江戸時代前期の武士。高家旗本。『忠臣蔵』こと「元禄赤穂事件」での敵役として知られる。官位から「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」と通称される。幼名は三郎。家紋は丸に二つ引・五三桐。名前の読み方についてはこれまで「よしなか」とされてきたが、所領のあった愛知県吉良町の華蔵寺に収蔵される古文書から現在では「よしひさ」と考えられる。高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸鍛冶橋にある吉良邸にて誕生(陣屋があった群馬県白石の生まれとも)。義央の吉良家が務める「高家」とは幕府における儀式や典礼を司る役職で、いわゆる「名門」の家柄。1701年4月21日、江戸城本丸大廊下(通称:松の廊下)にて勅使接待役だった赤穂藩主・浅野長矩に背中と額を背後から斬りつけられた。長矩は即時切腹、義央は一命を取り留めた。しかし、1703年1月31日、江戸の本所にある吉良邸に討ち入りした大石良雄ら赤穂浪士47人により義央は首を討たれた。墓所は東京の中野区にある萬昌院功運寺。義央というと、『忠臣蔵』での“悪役”イメージからその評価は低かったが、実際は領主として治水工事や新田開拓に尽力しその功績や人柄から“名君”と慕われていたともいわれる。
上杉綱憲
江戸時代前期の大名。「赤穂事件」で赤穂浪士に討ち取られた高家肝煎・吉良上野介義央の子。幼名は吉良三之助、上杉氏に養子入りしたのちは上杉景倫(かげのり/かげとも)、上杉時代の通称は喜平次。官位は従四位下、侍従、弾正大弼。米沢藩主で伯父の上杉綱勝が嗣子のないまま急死し、米沢藩が改易の危機に陥った際、綱勝の岳父・保科正之の取り成しで生まれたばかりの綱憲が養子として上杉家に入り改易を免れた。のち実家の吉良家に後継者がいなくなっていたため、綱憲は次男(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。米沢藩主としての綱憲は数学振興やのちに藩校「興譲館」となる聖堂・学問所を設立するなど文治政治に力を注いだ。しかし、寺社の大修理などの建築事業やぜいたくなどにより藩財政は悪化、実家・上杉家への援助も財政圧迫を加速させた。そして、1701年(元禄14)、父・義央が赤穂藩主・浅野匠頭長矩に斬り付けられ、翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われた。綱憲は父・義央のため援軍を送ろうとしたが幕府老中から出兵差し止め命令が遠縁の高家・畠山義寧より伝えられ、綱憲は援軍を送れなかった。なお、『忠臣蔵』などフィクションでは綱憲を止めたのは家老の色部安長または千坂高房だが、これは事実ではない。「赤穂事件」について、江戸の人々は赤穂浪士たちを“義士”として賞賛した一方、行動を起こさなかった綱憲と米沢藩上杉家を腰抜けとみなし、「景虎(謙信)も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出もやらねば」などといった上杉家を揶揄する落書を大量に貼った。その後、綱憲は病により隠居、42歳で没した。墓所は山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所・上杉家廟所。
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