奥田貞右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)
奥田貞右衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。貞右衛門は通称で、名は行高(ゆきたか)。同じく義士の奥田孫太夫は義父で、これまた同じく義士の近松勘六は異父兄。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、のち、奥田孫太夫の婿養子となった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こして以降は父・孫太夫と行動をともにし、討ち入りに際しては裏門隊に属した。吉良邸から引き上げる時には、戦闘中、泉水に落ちて負傷した兄・近松勘六に自分の小袖を着せ肩を貸して一緒に引き上げたという逸話がある。三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けののち、切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。貞右衛門には討ち入り直前に生まれたばかりの息子がいたが、貞右衛門はわが子の将来を思い自分の脇差(名刀・村正)を遺し、自分の死後、売り払ってもかまわないと遺言した。なお、この息子、奥田清十郎はのち親戚の仁尾家の養子となり、阿波国徳島藩士となったが24歳の若さで夭折した。
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