大石蔵之助(歌川豊国 画)
大石内蔵助
江戸時代前半の武士、播磨国赤穂藩の筆頭家老。『忠臣蔵』こと『仮名手本忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で赤穂浪士たちを率い宿願を果たした。本姓は藤原、「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般に「大石内蔵助」の名で広く知られる。幼名は松之丞。10代の時に父、祖父が他界したため、若くして領地と「内蔵助」の通称を受け継ぎ、21歳で赤穂藩の筆頭家老という重職に就いた。平時においては「昼行灯」とあだ名されるほどの凡庸な家老だったといわれるが、1701年、勅使接待役の赤穂藩主・浅野長矩が接待役指南の高家肝煎・吉良義央を江戸城松之廊下で斬りつけるという刃傷事件が起きる。これに将軍・徳川綱吉が激怒、浅野長矩は即日切腹を命じられ、赤穂浅野家はお家断絶となった。一方の吉良はお咎めなしであった。この報が赤穂城に届くと、城内は恭順派と篭城派に分かれ紛糾したが、良雄は、城を明け渡し長矩の弟・浅野長広を主君とし浅野家再興を幕府に嘆願、同時に吉良への処分も求める、ということで城内をまとめた。赤穂城を明け渡したあとは家族と今日の山科に隠棲、ここから浪士たちと連絡をとりあった。良雄は、吉良への仇討ちを急ぐ急進派を抑えつつ、お家再興に力を入れた。だが、お家再興の望みは絶たれ、良雄もついに吉良を討つことを決意、元禄15年12月15日未明(新暦では1703年1月31日未明)、47人の赤穂浪士たちは江戸の本所にある吉良屋敷に討ち入った。激闘の末、吉良を討ち取った浪士たちは江戸市中を行進し、泉岳寺にある長矩の墓前に吉良の首級を供え本懐成就を報告した。幕府の命により浪士たちは4つの大名屋敷にお預けとなり、良雄は肥後熊本藩の屋敷に預けられた。それから約2ヵ月後、幕府から切腹を命じられ良雄をはじめ浪士47人は切腹した。辞世の句は「極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそえて四十八人」といわれる。良雄の亡骸は長矩と同じ泉岳寺に葬られた。
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