中島三郎助
中島三郎助
幕末の始まりである黒船来航と、幕末の終わりである箱館戦争に深く関わった希有な人物として知られる。
黒船が浦賀に来航したとき、戦闘態勢を取り明らかな砲艦外交で上陸を迫るペリーに対して、最初の交渉にあたったのが中島三郎助であった。
当時の中島三郎助は浦賀奉行所の与力に過ぎず明らかに身分不相応。しかし、ペリー側の真意を探るため、三郎助は自らの身分を副奉行と詐称。ペリーの船「サスケハナ」に通訳1名のみを引き連れ乗り込んだ交渉は大胆そのものであったと伝えられている。
その後、ペリーの船を仔細に観察した経験を買われ、日本ではじめて西洋式大型軍艦の建造を指揮する。わずか8ヶ月で完成させた軍艦は鳳凰丸と名付けられ、三郎助は実質的な艦長に就任した。
その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、勝海舟や榎本武揚らとともに、造船学や航海術、砲術を学ぶ。のち、軍艦操練所の教授方となり後進を指導するなど、幕府海軍の整備・育成に尽力。
戊辰戦争では、幕臣として息子の恒太郎・英次郎とともに、海軍副総裁である榎本武揚らに合流。箱館政権では箱館奉行並となる。
最後は、榎本武揚の退却の命令を断り、五稜郭を守る最終拠点・千代ヶ岡陣屋を守り抜こうと奮戦。二人の息子とともに戦死した。
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