河井継之助
河井継之助
長岡藩士。かわいつぎのすけ、とも読まれる。号は蒼龍窟。30歳半ばまでは、藩政改革を試みるがなんの成果も上げられずに失敗するなど、さしたる活躍もなく、もっぱら遊学していた。主に、江戸で佐久間象山や古賀謹一郎、松山藩では備中聖人と称された改革者・山田方谷に学ぶ。幕末をむかえ時勢がいよいよ煮詰まった段階で、藩は河井を重用。河井は、軍制改革を中心に大規模な改革を断行し、来るべき戊辰戦争に備える。軍制は当時の流行に沿った洋式化であり、なかでも兵器の最新化を重視して、ガトリング砲(機関砲)やフランス製の2000挺の最新式銃を購入した。(当時日本にあったガトリング砲はたった3つであり、そのうち2つを継之助が所有していたというエピソードは有名である)。7万石の小藩の分を超えて軍備を強化した河井の真意は、武装中立であったといわれる。武力を背景として幕府・新政府の間でキャスティング・ボートを握り、存在感を示したい。その意図を胸に秘め、東北に侵攻してきた新政府軍との交渉に臨む(小千谷談判)。河井は交渉相手として長州代表・山県有朋か薩摩代表・黒田清隆を希望していたが、出てきたのは土佐藩の若輩・岩村精一郎であったため、「調停役」という高度な政治交渉が出来るはずもなく決裂。長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、最新洋式兵器は北越戦争で新政府を相手に威力を発揮することとなった。戦時中、河井は軍事総督として藩軍を指揮。当初は新政府軍と互角に渡り合うが、作戦中に河井が負傷。これ以後、長岡藩は総崩れとなる。継之助は負傷がもとで、命を落とす。
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