村田新八の墓(南洲墓地)
村田新八
薩摩藩士。寺田屋騒動を煽動したとして、西郷隆盛とともに、島津久光から疑われ、島流し(喜界島)にあう。1866年、長州藩の伊藤博文らとともに上海訪問。明治維新後も、岩倉使節団の一員として欧米視察。生来の器量とともに、豊富な海外視察経験により、西郷の腹心であった桐野利秋や篠原国幹をしのぐ評価を得ていた。勝海舟、曰く「彼(村田新八)は大久保利通に亜(つ)ぐの傑物なり。」大久保利通は、征韓論の政戦による人材流出でもっともショックを受けたのは村田新八であったと伝えられる。西南戦争では、西郷の自決を見届けた後も、最後まで抗戦。戦死した。
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