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松平不昧の肖像画

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松平不昧の肖像画

松平不昧
江戸時代中期から後期の大名、出雲国松江藩の7代藩主。茶道「不昧流」の祖で、江戸時代を代表する茶人として名高い。一般に知られる「不昧」は号で、名は治郷(はるさと)。幼名は鶴太郎、のち治好(はるたか)。号はほかに斗門、蘭室、笠沢(りゅうたく)など多数。6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)の子として生まれ、父が隠居すると家督を継ぎ7代藩主となった。当時の松江藩は財政が破綻しており、「おそらく藩は滅亡するであろう」と噂されるほどの惨状にあった。そこで不昧は家老・朝日丹波茂保(しげやす)を右腕とし藩政改革に着手、徹底的な倹約、治水と新田開発の推進、鉄・紙・薬用人参(朝鮮人参)など商品価値の高い特産品を生産しての地場産業奨励などを行い、藩財政を黒字化させることに成功した。しかしその後、茶人としても知られる不昧が高額な茶道具の収集などに散財したため再び藩財政は悪化してしまう。不昧自身が親政し再度の改革に着手したが財政が好転しないまま隠居、68歳で他界した。墓所は島根県松江市にある月照寺のほか、東京都文京区にある護国寺、京都市北区紫野にある大徳寺塔頭孤篷庵。また不昧は松江市殿町にある松江神社に主祭神として祀られている。政治家としての評価はあまり高くない不昧だが、茶人としては類稀なる才能の持ち主で当代きっての茶人としてその名は広く知られた。不昧は石州流をはじめさまざまな流派を学びやがて独自の茶風「不昧流」を確立したほか、『古今名物類従』『瀬戸陶器濫觴』といった茶器に関する著作も多く残した。茶室も手がけ、現在、松江市の旧松江藩家老・有沢家山荘にある「菅田庵(かんでんあん)」や松江市の塩見縄手にある「明々庵(めいめいあん)」が残っている。また、不昧の収集した茶器や和菓子などは「不昧公好み」として現代まで伝わる。

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