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片岡源五右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

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片岡源五右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

片岡源五右衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五右衛門は通称で、名は高房。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。御三家のひとつ尾張徳川家の家臣の子として名古屋に生まれる。幼い頃に親戚にあたる赤穂藩士・片岡六左衛門の養子となり、9歳の時に養父が死去すると家督を継ぎ、主君・浅野内匠頭長矩に小姓として仕えた。同年齢で頭の早い源五右衛門は長矩から寵愛を受けスピード出世していき、赤穂浪士のなかでは家老である大石内蔵助に次ぐ高家禄となった。主君・長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時は江戸城内に控えており、切腹の直前、長矩に対面したといわれる(真偽は不明)。切腹後、長矩の側用人たちと遺体を泉岳寺に埋葬、その墓前で髻(もとどり)を切ると吉良上野介義央への仇討ちを誓った。最初は大石内蔵助とも江戸の急進派とも距離をとり、磯貝十郎左衛門らと独自グループをつくり仇討ちのチャンスを狙った。その後、大石らと合流、尾張にいる父や兄らに義絶状を送り吉良邸へ討ち入り、本懐を果たした。討ち入り後は大石らと熊本藩主・細川家屋敷にお預けとなり、切腹。墓所は高輪の泉岳寺と愛知県名古屋市千種区にある平和公園(中区の乾徳寺より移転)。

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