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六角義賢の錦絵(落合芳幾画『太平記英雄傳 佐々木六角承禎』)

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六角義賢の錦絵(落合芳幾画『太平記英雄傳 佐々木六角承禎』)

六角義賢
通称は四郎。法名は承禎。官位は従五位下左京大夫。父は近江の守護・六角定頼。 1552年、父・定頼の死去にともない義賢は家督を相続、近江の名門・六角家の当主となった。その6年後には早くも長男・義弼(義治)に家督を譲り、自らは出家し承禎と号するようになったが、その後も実権を握り続けた。父・定頼の代から室町幕府将軍・足利義晴、義輝や細川晴元を支援し三好長慶と幾度も交戦、1558年には近江坂本に追放されていた義輝を京に戻すことにも成功した。一方、北近江の浅井久政とも戦闘を繰り返し、一時は六角氏の勢力下に置くことに成功したが、1560年、浅井久政の息子・長政が六角氏に反抗を開始、義賢は大軍をもってこれに対抗したが大敗を喫した。 そして1563年に長男で当主の義弼が重臣・後藤賢豊を暗殺するという愚行を犯したことにより(観音寺騒動)、六角氏は家臣たちに対し急速に求心力を失っていった。1566年には浅井長政が再び六角領に侵攻を開始、さらに1568年には将軍・義昭を奉じた織田信長の上洛軍に観音寺城を攻められ、力尽きた義賢・義弼父子は観音寺城を脱出すると甲賀へ逃亡した。 その後、再起をかけたがかなわず流浪の末、1598年4月19日、六角義賢は世を去った。

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