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斎藤龍興の錦絵(落合芳幾画)

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斎藤龍興の錦絵(落合芳幾画)

斎藤龍興
斎藤義龍の息子。祖父は斉藤道三。 幼名は喜太郎。通称は刑部大輔。別名は右兵衛大夫、義糺、義輔。1561年、父・義龍が急死したことを受け家督を継ぎ稲葉山城の城主となった。しかし、父の代から続いた織田信長による美濃侵攻にさらされる領内をまとめるには龍興はまだ若すぎ、国内の統制は乱れ家臣から離反者が続出した。そして1567年、斎藤氏の重臣で「西美濃三人衆」といわれた稲葉良通(一鉄)、氏家直元、安藤守就らが織田信長に内応、ついに信長によって稲葉山城は落とされ、斎藤龍興は美濃を脱出し伊勢国長島へ逃亡した。 その後、龍興は伊勢から摂津へ向かい、三好長逸・三好政康・岩成友通のいわゆる「三好三人衆」と連携し信長に対抗した。さらに、縁戚関係にあった越前国の朝倉義景のもとへ向かい、1573年、義景とともに信長と交戦したが敗北、ついに刀禰坂において討ち死にした。25歳の若さでこの世を去った龍興だが、実は死んでおらず越中国で九右ェ門と名を変え、付近を開拓し住み着いた、という伝説が残っている。

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