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斎藤道三の肖像画

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斎藤道三の肖像画

斎藤道三
あだ名は美濃の蝮。 幼名は峰丸。通称は新九郎。法蓮房、松波庄九郎、長井規秀、斎藤利政など多くの別名を持つ。 道三は、僧侶から油商人となり己の才覚をもって謀略を駆使し、美濃一国の「国盗り」を成し遂げた下克上大名の典型といわれる人物である。だが、近年ではこの「国盗り」は道三1代で成し遂げたものではなく、その父・西村新左衛門尉と2代にわたって行われたといわれている。 1533年、父・新左衛門尉が死去し、その主人である長井長弘も世を去ると、道三は長井家の家督と所領を乗っ取り、1538年には美濃守護代・斎藤利良が病死すると今度は斎藤の名跡を継ぎ、翌年、斎藤氏の居城だった稲葉山城に入城し大改築を行った。さらに道三は1542年には守護・土岐頼芸とその子を追放し、美濃を手中に収めた。 1548年、道三は尾張の織田信秀と和睦すると、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の息子・織田信長に娶らせた。この時、道三は「うつけ」と聞いていた信長が噂とは異なる人物であると見抜きその評価を一変させ、家臣に対し「わが子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになるであろう」と言ったという。織田家の後援を得た道三は、1552年、土岐頼芸を尾張へ追うと完全に美濃を平定、2年後には家督を嫡男・義龍に譲り隠居した。しかし、もともと折り合いの悪かった道三と義龍の仲は悪化、ついに1555年、義龍は道三に対し兵を挙げるに至った。そして、両者は長良川河畔で激突したが、義龍軍と道三軍との兵力差は大きく、道三は波乱の人生に幕を閉じた。

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